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バイクのブログ

■前夜祭つづき
キリスト教会の葬儀

牧師の話は続く
「7月3日の日曜日、午前9時ごろに、家族の方が何時までも起きてこない
ので寝屋を訪れたところ…私達が礼拝を行い、今日は遅いな、
なにか有ったのではなかろうかといぶかしんでいた時には既に、
兄弟は神の元に旅立たれていたのです。」

キリスト教会の葬儀とは、天に召された故人をしのびつつご遺体を丁重に葬り、
神が故人の罪を赦しキリストに拠って
永遠の命に迎え入れてくださっていることを信じて感謝し、
なお遺された者達の悲しみを神が癒し、
真の慰めを与えてくださることを祈りつつ神を拝み、神を礼拝するものです

人間は神では有りません。神に作られた被造物です。死んでもそれは変わりません
ですからキリスト教会では故人を神あるいは神のようなものとして手を合わせて拝むことは致しません。
神が与えたもう人の死と生とに深く思いを至らせつつ神をあがめ神を礼拝しましょう


そのあと、故人が愛唱していたと言う賛美歌338「聖潔」が
オルガンのやたら長い前奏とともに始まり皆で斉唱した、
四番まで唄い最後に「あーーーめん」で締める。

そして兄弟はこの詩が好きだった…と
聖書から詩篇23編を牧師が朗読し意味や故人について説明する

そして賛美歌294信頼、説教に続き賛美歌313が故人愛唱であるとして唱和した。
最後には賛美歌541領栄を皆で唄った

感想だが式典は、まったく湿っぽくない。
プログラムには「祝祷」との文字があり、前夜祭とも言うし
祝ってるような雰囲気すら一部にあり、仏教とはまったく違う。

遺体は神に足を向け頭を参列者のほうに向けて安置される。
つまり、最後の礼拝に死者は参加しているのだ。

また、写真を撮ってもいいというのだ。ただフラッシュは焚かないで呉れと言う
起立を求めるところがあるが、立ちにくい方は立たなくともよいとも言う。

歌に始まり歌で終わることが奇妙だ。坊さんが発言するだけで参加者が歌うことなど
仏教ではありえない。海外で教会にカラオケ装置が売れると言う話を聞いたことがある。
これなら売れて当然だろう、賛美歌用にカラオケはうってつけだ。なにせ、唄いだしがわからないからな、節はゆっくりで単調だが。

また、日本で仏典を暗唱している者は少ないのに
キリスト教では自分が気に入ってる詩は暗誦できて当然のような節がある。
紫雪さんもコメントしているが、教会関係者はパンフを読まずに主の祈りを言えるようだ。

キリスト教ではいかなる場合も神以外を祈ることは認められていない。
人間には神に祈るしか、それ以外には何も認められてないような気もする

人間は誰がどのようにしても神としての礼拝の対象にならない
日本では人間が死ねば神になるのでまったく常識が違うのだ。
この辺が一番違うと思った
特に収穫は無かったが、まったくお布施の類を教会は預からなかったし
教会は質素で手伝う信者も好感が持てた。

全体としてキリスト教という物に好感を持った。
今の今まで宗教はすべて社会の盲腸、精神安定剤ぐらいにしか思っていなかったのだ。